流石にF-1デビューの航空祭となれば、観客側の期待に応えるべく航空自衛隊側も相当な気合が入っていた。 F-1も3機編隊での離陸で、立て続けに10機が空に舞った。上空通過は、体形を変えながらビックアローの10機編隊である。
Prolog
昭和52年(1977)2月25日に愛知県の三菱重工業小牧南工場で、我国最初の国産戦闘機と言えるF-1が報道陣に公開された。T-2高等練習機から支援戦闘機への改修案、そしてテストベットとしての試作機FS-T2改を通して辿り着いた日本が独自で設計から行った最初の戦闘機として、”F-1”の名称が与えられた。1977年2月にロールアウトしてその時点でのスケジュールは、3月から地上走行テスト、9月に飛行テストをして、防衛庁への引き渡しは、9月末との予定が報じられたが、機体には航空自衛隊の使用機として、初めて薄いタン色と濃淡緑色の3色迷彩塗装を施されており、強いインパクトを感じた。この時の様子は、テレビや新聞でも報道され、何れ航空専門誌でも紹介される事であろうと満を持していたが、1977年5月号の航空ファン誌の表紙を飾り、感激の内に購入した記憶がある。
 新戦闘機と言っても、機体そのものは既に活動していたT-2高等練習機と殆ど外形が変わらなかったので、新鮮味には少々欠けた。しかし装備された爆撃照準装置や初めての迷彩塗装は、それまで周辺国への配慮などと言われてきた政治的にハードルをクリアーした意味でも、航空自衛隊にとっての一皮むけた航空機であり、ある意味変革の起点となった戦闘機であったので感慨深いものがあった。(しかし戦闘爆撃機とは言えず、支援戦闘機と呼んでいた所は、まだまだそういう空気が強かったのである。)

 ロールアウトした1977年の時点では、既に昭和50年度予算でF-4EJ 12機と共に、FS-T2改として18機の生産分が確保されていたので、1977年秋から月産3機ペースで生産され、翌年の昭和53年(1978)の末には、最初の飛行隊が定数を揃えて活動を本格化すると言う非常に速いスピードで進行していた。当時航空自衛隊の主力戦闘機はF-104JからF-4EJに移行中で、百里と千歳に1個飛行隊が稼働中、前年1976年小松基地に第303飛行隊が創設されたばかり、F-104Jと共同運用されていた。F-4EファントムとF-1戦闘機が数を揃えれば、周辺国に対し相当な抑止力が生まれると期待されたものである。軍用機ファンの一人として1976年から本格的に撮影を始めた私にとっても、被写体としてF-104やF-4EJと共にF-1戦闘機は大きなターゲットの一つとなった。(2024年2月 記)
↑ 1979年7月三沢基地で撮影された3Sq215号機の尾翼UP。第3航空団(3rd Wing)のマークで[3][W]と青森県の地図がデザインされている。津軽半島と下北半島を取り入れ、只の地図でなく戦闘機部隊らしく襲い掛かる猛禽風に仕上げた優れたデザインだと思う。別の項でも書いたが旧陸軍航空隊からの良き伝統である。渡辺明氏撮影
↑ 1979年11月に九州の新田原基地にて展示された3Sq/209号機。渡辺明氏撮影
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↑ 1979年10月の三沢基地航空祭でも目玉はやはり新進気鋭のF-1戦闘機である。この年も米軍機の展示は多く、VMFA-312のF-4JやVMA-211のA-4M等が展示されていたそうであるが、私は参加できなかったので友人からの写真をで当時の様子を少し。F-1の地上展示は、ノーマークの224号機と第3飛行隊の213/229号機があったようだ。上写真の224号機も第3飛行隊の所属である。姉妹飛行隊である第8飛行隊は、この年の6月からF-1戦闘機への転換訓練に入っている。展示火器の赤外線誘導ミサイルは、説明書きに国産ミサイルである”AAM-1"と書かれており、実際にF-1で使われたかどうかは不明だが、生産が1ロットで終わっているミサイルで、ダミーとは言え非常に珍しい。
最初のF-1飛行隊であった第3飛行隊は、F-86F戦闘機からの更新で、当初の予定より早く1978年3月末にF-86Fからの機種更新を終えていた。1978年の10月の三沢航空祭は、正にF-1支援戦闘機のお披露目の舞台となったのだ。
↑ 翼面積が小さく、細身で下半角を持つ翼は、F-104を彷彿とさせる精悍さがある。キャノピの風防ガラスは、前期型の3分割方式。
↑ 翌月11月に入間基地で開催された航空ショーに参加したF-1 210号機。関東地区での最初のお披露目となったはずである。当然多くの航空ファンの注目が集まった。翌年1979年の入間国際航空宇宙ショーにも、第3飛行隊の244号機(80-8244)が展示されている。
↑ R/W-28側展示エリアの展示機も3機以上と充実した内容であった。装備品の中心は、地上攻撃用の装備である。218号機は、500ポンドMk-82爆弾を8個も付けていた。218号機は、昭和50年度予算では注した最初のロット/18機の最終号機と思われる。218号機(80-6218)は、1987年4月に事故で失われている。
↑ この編隊は、全て第3飛行隊で、202/203/204/207/209/210//211/212/213/217の各機が参加していた。
Pege-1
↑ また2機編隊による低空でのパスも披露された。それまで地上攻撃の支援機として使われていたF-86Fに比較して、装備も充実し、スピードもある頼もしい存在に見えた。また航空自衛隊で最初の迷彩塗装が、軍用機の迫力を醸し出していた。。
3rd Squadron
↑ 当時の三沢基地は航空祭の際、デモフライトする機体をエプロンのR/W-10側(西側)に移動させて、観客エリアからは相当な距離を取っていた。この日飛んだ10機のF-1と10機のF-86F/RF-86は、陽炎で霞む奥のエプロンから発進し、戻ってきた。1978年の時点では三沢基地の戦闘機部隊は、航空自衛隊だけであり、エプロンは広々と使えていたのだ。
↑ できればジャガー戦闘機のように単座タイプは、成形されたキャノピを付けて後方視界を取りたかったはずだが、それをすれば開発に更なる時間と費用を要する事になる。恐らく配備を急ぐためには、できるだけ簡素な改造で済ませたかったのだろう。